投稿

3月, 2016の投稿を表示しています

お誕生日おめでとうございます

イメージ
Designed by Freepik 今日は笙野頼子さんの誕生日です。おめでとうございます! 末永くお元気であられますようお祈り申し上げます。 記念に 笙野頼子資料室 をスマートフォンも閲覧できるように、デザインを変更しました。今はやりのレスポンシブというものを私もしてみるなり。

清水良典『デビュー小説論』

2016年2月24日発売された清水良典『 デビュー小説論 新時代を創った作家たち 』の第4章地獄絵のマニフェスト――笙野頼子『極楽』にて、 笙野頼子『極楽』が論じられています。 本作は「群像」で連載していた文芸評論「デビュー小説論」の書籍化で、第4章は2015年1月号に掲載された内容を加筆したものです。 デビュー作「極楽」は、初期作品として片付けられ、代表作とは異なると捉えられがちだけれども『太陽の巫女』や「カニバット」『金毘羅』に発展する主題が描かれていると解説。 作品末尾で、檜皮は周囲に奇怪なセリフを口にする。「ぼくは極楽から現世に落ちた人間です」--。 「声」が授けた「目と心」は「後世」−−つまり時間軸がずれただけの現世から来た。つまりこの「声」は、地獄と極楽という神仏的次元に接近していた檜皮を、無惨な現世に引きもどしたのだ。 この「声」に、「極楽」はいったん負けている。檜皮は「声」との戦いの敗者である。 しかし、「極楽」はむしろ惨めな現世に留まったことで、未来の足場を作った。超越的な世界に救われることなく、どこまでも生きにくい現世に留まり、現世を糾弾し続ける戦場を指し示したことが「極楽」の到達点である。 そして、ここから笙野の「声」との長い戦いが始まるのだ。p130 『皇帝』で女装して徘徊する青年を、笙野は「巫女」と書いた。巫女とは現世に行きながら神の仲介者であり、自らの体に神を宿す者である。 初めて一人称の「私」が登場する『呼ぶ植物』が発表された八九年に、年譜によれば「後の『太陽の巫女』の原型になる長編四〇〇枚を執筆するが、ボツになる。」との記述がある。この『太陽の巫女』が日の目を見るのは六年後である。 一人称「私」で描かれるこの小説は、太陽神を祀る日本で一番保守的な町「ナギミヤ」を舞台に、首都で「やおい小説」を書いている女性作家の「竜波八雲」が帰郷し、冬至の太陽神である夫と「単身婚」を果たす物語である。夫は「夢と幻視」の神でもあり、八雲はこの結婚によって生涯ヒトの男とまぐわってはならず、夢と幻視の世界に没頭する定めとなる。 結婚もせず、夢と幻視に満ちた小説を書く「私」は、ここで「太陽の巫女」としての「私」へと創造しなおされるのだ。p136 自らの生きにくさ、現世への違和感の根拠を幻視の世界で創造しなおすと同時に、この国を支配する権力